200名城幕末動乱ベスト5

皆さん、こんにちは。今日は200名城の中で幕末の舞台になったお城ベスト5をご紹介したいと思います。お城はもっぱら戦国期にスポットライトが当たるもんですが、今日ご紹介するお城は幕末の転換期 (長州征伐、大政奉還、戊辰戦争が起こった1866~1869年の3年間) に脚光を浴びたお城です。では早速見てみましょう~。

5位 小倉城 (続100名城、福岡県)

ガイドブックの案内:JR西小倉駅から徒歩10分

1866年 第二次長州征伐は長州では四境戦争と呼ばれました (長州が自分から征伐とは言えないですもんね)。四境とは長州のそれぞれの国境である大島口、芸州口、石州口、小倉口の事ですが、幕府軍総督、小笠原長行(ややこしいけど小倉藩主ではなく唐津藩出身の幕府老中です)が指揮する九州諸隊と高杉晋作・山縣有朋が率いる奇兵隊を含む長州藩とが関門海峡を挟んで戦いました。終始戦闘に消極姿勢だった総督のもとで九州諸隊の足並みもそろうはずもなく、佐賀藩に至っては出兵を拒否、そんなことで小倉は長州藩に攻め込まれ、更に14代将軍徳川家茂の急死の報を受け総督は戦線離脱、孤立した小倉藩は最終的に自ら小倉城に火を放ち、領内の別の場所に退却します。小倉藩からは相当恨まれそうな長行さんですが、15代慶喜政権では外国事務総裁を担当したり、戊辰戦争では東北そして最後の函館戦争まで参戦し敗戦後は逃亡潜伏生活を送り、明治5年になってようやく新政府に自首すると言う波乱万丈な人生を送ったのでした。

オリジナルは本当にこんな絢爛な天守だったのでしょうか?

4位 二条城 (100名城、京都府)

ガイドブックの案内:地下鉄二条城前駅徒歩すぐ

長州征伐の敗戦ですっかり権威失墜の幕府ですが、徳川慶喜が15代将軍に就任すると矢継ぎ早の改革で多少は盛り返しを見せます。しかし翌年には反徳川諸藩連合の形成で慶喜がジワジワと追い込まれたところで、土佐藩から大政奉還が献策され、慶喜としては薩長による討幕の動きを封じるためこれを受け入れ、ここに260年間続いた徳川幕府は終焉しました。1867年10月14日ここ二条城二の丸大広間に40藩50人の重臣を集め、この歴史の一大イベントが表明されました。

こんな立派な現存御殿、日本唯一ですね(二条城二の丸御殿)

大政奉還後、王政復古のクーデーターで官位と領地を失った慶喜をサポートする会津・桑名藩と武力討幕したくて仕方のない薩摩藩の間で、1868年正月ついに鳥羽・伏見の戦いが始まり、これが戊辰戦争の幕開けとなりました。官軍の掲げた錦の御旗を見て、すっかり戦意喪失した慶喜は会津藩主松平容保を連れて密かに大阪城を抜け出し幕府軍艦開陽丸で江戸に戻り、新政府に対し恭順の意を示し自ら謹慎生活を始めます。慶喜から事態収拾を任された勝海舟は新政府東征軍の西郷隆盛との会談を以って江戸城無血開城に漕ぎつけます。これで終わりとなれば良かったのですが、今度は新政府に恭順の意を示さない会津藩・庄内藩に対して新政府軍は追討を決め、以後東北戦争に発展していきます。

3位 二本松城 (100名城、福島県)

ガイドブックの案内:JR二本松駅から徒歩20分

新政府軍は仙台まで進軍、仙台藩ほか東北諸藩に会津藩・庄内藩を新政府と共に追討するよう命じますが、逆に会津藩・庄内藩を支持する奥羽越列藩同盟が31藩の間で結ばれてしまいます。東北の玄関口、白河小峰城が100日に渡る激戦の末、新政府軍に落とされ、板垣退助(土佐藩)率いる新政府軍は二本松城を目指します。二本松藩は藩兵を白河城に割いていたため、二本松城に残ったのは老兵と少年兵だけとなってしまいました。最後の望みの援軍も来ないまま、藩主の丹羽長国を米沢藩に逃したのち、遂に抵抗を諦め、自ら城に火を放ち家老以下重職者は自刃しました。更に悲劇となったのは城外に取り残された二本松少年隊の40名で、隊長・副隊長が戦死したため指揮する者もいない中、半分の18名が戦死してしまいました。中には13歳の少年もいたそうです。現在、お城の入り口には少年隊の銅像があります。降伏もできず自刃落城したため、戊辰戦争の中でも最も悲しい結末なのかもしれません。

現在で言えば中高生なんですよね (二本松少年隊の像)
城代丹羽和左衛門は割腹の際、自ら内臓をつかみ出したとの事です

2位 会津若松城 (100名城、福島県)

ガイドブックの案内:JR会津若松駅からバス20分、鶴ヶ城北口下車徒歩3分

二本松城を落とした新政府軍は、領内各境に散らばる会津兵が戻れないくらいの電撃的な速さで会津領に侵攻、直ぐに会津若松城での籠城戦となります。新政府軍のアームストロング砲集中砲火により天守はあちこちに穴があき崩壊寸前までなりますが、最後まで城内侵入を許さなかったのは会津の意地だったのかもしれません。戊辰戦争の他の戦いと違い、会津藩の戦いは少年、婦女子も戦闘に参加したのが特徴的で正に自分たちの故郷を守る戦いだったのでしょう。ですので飯盛山で城が落城したと見間違えた末に自刃した白虎隊の悲劇、戦闘の足手まといになるのを嫌った家老西郷頼母一家自害の悲劇など悲しい出来事も起こってしまいました。そして一カ月の籠城の末に会津藩は降伏、続いて最後まで残った庄内藩も降伏し、ここに東北戦争は終わりを告げました。

崩壊寸前まで集中砲火を浴びた会津若松城天守

1位 五稜郭 (100名城、北海道)

ガイドブックの案内:路面電車五稜郭公園前から徒歩10分

東北戦争も終盤、旧幕府軍が敗色濃厚となった頃、ようやく榎本武揚率いる旧幕府海軍勢は江戸湾を出て途中仙台に寄港し、大鳥圭介、土方歳三ら部隊を乗せて1868年、蝦夷地箱館の北に上陸しました。当初、榎本は行き場を失った旧幕臣を蝦夷地に移住させ開拓の任にあたらせようと考えていました。蝦夷地上陸後すぐに五稜郭への無血入場を果たし、更に新政府側に付いていた松前藩へは土方が兵を率いて出陣、松前城を陥落させることに成功、松前藩主は弘前藩へ避難、これにより旧幕府軍は蝦夷地平定を果たし箱館政権を樹立しました。しかし翌春になると新政府軍が乙部に上陸し巻き返しが始まります。新政府軍は各方面から徐々に箱館に迫り、1869年5月遂に箱館総攻撃が始まります。市街戦のさなか、土方歳三は五稜郭と箱館山の中間地点、一本木関門(箱館の関所)で狙撃され戦死。五稜郭も箱館湾から新政府軍艦からの艦砲射撃を受け、これ以上戦闘遂行は無理と判断した榎本武揚は新政府軍の勧告による無条件降伏に同意、ここに1年半に及び日本全国を巻き込んだ戊辰戦争は終結しました。

再建された箱館奉行所庁舎

最後に・・・                              各地で敗戦に敗戦を重ね続けた旧幕府軍ですが、そんな旧幕府軍の中に唯一連戦連勝負けなしの藩がありました。庄内藩です。庄内藩の強さの秘訣は二つあり、一つは北前船の商売で巨万の富を誇った酒田の豪商本間家が当時最新の銃砲、大量の弾薬を提供した事、二つ目は庄内兵の半数近くが武士ではなく町民百姓で言わば東北の奇兵隊のような感じで、領民が上から下まで一致団結できたからでした。その強さは新政府軍を最後まで藩内侵入さえ許さなかったほどです。戊辰戦争の戦後処理で、そんな庄内藩に寛大な処分で済ませたのが西郷隆盛です。そしてこの処分に対し、庄内の人々は酒田に西郷隆盛を祀った南洲神社を建て感謝の気持ちを表しました。

さて今回の幕末のお城ベスト5いかがでしょうか?今回のお城はストーリー上、時系列に並べただけで、順位は関係のないような気もします。皆さんのご意見も聞きたいので、気軽にコメントください。

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“200名城幕末動乱ベスト5”. への2件のフィードバック

  1. こんばんは、「幕末のお城ベスト5」とても勉強になりました。
    これから幕末の本も読んでみます。

    いいね: 1人

    1. コメント頂き有難うございます!(返信遅くなり申し訳ございません)
      幕末は短期間で各藩のパワーバランスが目まぐるしく変わるので理解するのが大変なんですよね。

      いいね

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